三面鏡の前に、バス・タオルを腰にまとった、一個の男性が坐っていた。
曄道征四郎である。
彼は、すでに顔に白い化粧をほどこし、目ぱりを入れ、ルージュを塗っているところであった。
青いアイシャドーが、彫りの深い顔立ちを、更に引き立たせている。
マルセール・佐紀は、すでに化粧や着つけを終えて、高い踵の靴を穿き、ジュータンを敷きつめた床の上を、踊り子よろしく歩き廻っている。
「あなた...今夜は、どのカツラになさる7・」
佐紀はきいた。
「平凡なのがよくない?」
嘩道は答えながら、上手に唇を塗りわけてゆく。
化粧が済むと、彼は、ベッドの上に、佐紀が並べた女性の下着をとって、手際よく身にまとうのだった。
今夜は、ブルーに統一してあるらしく、パンティも、ブラジャーも、すべて水色である。
嘩道は、それを着ながら、
「佐紀....。そんな網目のストッキングや、そんな十五センチのヒールを穿いて、外は歩けない...」
とたしめていいる・
「わかっているわ」
と、マルセール・佐紀。
シームレス・ストッキングをつけ、水色のスリップを頭からかぶって、曄道は上品なスーをとりだす。
――ああ。
曄道征四郎は、この札幌の街で、大胆にも女装して、外を出歩こうという気持ちらしいのである。
そして恐らく、その目的のために、半女性ともいうべきマルセール・佐紀は、札幌へ呼ばれたのであろうか。
女装して、夜の街を歩く。
それは、〃女装マニア〃と呼ばれる人々にとっては、一種の願望なのだそうであった。
そして、女性と間違えられ、
「お茶でも飲まない?」
と、同性から誘われたりすると、最高のエクスタシー状態になると云う。
実に奇妙な心理であるが、曄道は、東京では果せないその願望を、この異郷の地で試みようと、
しているのではあった......。
平凡な、セットきれたカツラを、......人はかぶり、ヘアビンで留め合った。
そして、コートを着、ハンドバッグを手にする。
曄道は水色のハイヒール、佐紀は真紅のハイヒールを履いた。
どこからみても、......人は 〃女性〃 だった。いや、女性そのものだった。
「部屋の鍵を、忘れないでね?」
曄道は、そう云いながら、佐紀を抱いて接吻し、
「あたし、サポーターをつけないと、興奮して駄目みたい...」
と騒ぐ。
「コートがあるから、大丈夫よ....」
佐紀は微笑した。
「だって、喫茶店に入ったときは?」
「バッグを腿のところに、載せておけば大丈夫」
「本当に、いいかしら?」
「心配しなくても、誰も、男だとは思わないわ」
「胸が、どきどきよ?」
「それは、そうでしょうね......」
佐紀は、曄道の唇を吸って、
「あたしだって、凄いわよ?」
と云う。
「ホテルの人に、怪しまれないかしら?」
「佐紀が万事、うまくやるわ」
「頼むわね.....」
「あまり長く散歩しないで、一時間くらいで帰ってきましょうよ」
「ええ、わかったわ」
曄道征四郎は、すでに女になり切った、低い声音である。
「街で、声をかけられても、澄ましていること。これが秘訣なの......」
「わかったわ」
「では、行きましょうか…」
佐紀は、先輩らしく振舞い、先に部屋を出て、左右を見廻し、
「いいわよ、あなた....」
と低く叫んだ。
二人が、ドアの鍵をかけ、俯き加減に歩きだしたのは、それから間もなくである。
曄道征四郎は、わけもなく胸を弾ませつづけていたし、マルセール・佐紀は彼と街へでる嬉しさに、わくわくしていたから、自分たちの斜め前の部屋-つまりー貫寺邦子の部屋のドアが、そーっと細目にあけられたのに気づかなかった。
二人は、エレベーターを待つ。
その姿は、実は邦子の視線の中に、とらえられていたのであった。
曄道征四郎は、自分の女秘書が、ただ唖然となりながら、
<社長さんも、あたし達と、おなじような仲間だったんだわ......>
と、恐ろしい顔をして、呟きつづけていたことを知らない。
曄道征四郎は、生まれてはじめての体験に、異常な興奮を覚えていた。
エレベーターから降り、フロントを横切ってゆく時の、あの妖しい、息苦しい胸の鼓動といったらなかった。
ハイヒールの細い踵が、ジュータンに喰い入り、歩き辛い。
プラジャーで胸を、ぐっと絞めつけられている。その感触が、また、彼には、たまらないのだ。
ホテルの前で、タクシーを待つ。
ボーイが、佐紀と彼とを見較べ、
<ほう、美人だなあ.....>
というような顔をしている。
タクシーに乗るとき、彼は佐紀を真似して、尻の方から先に座席へ入れた。そうして脚を揃えて、車内へすーっと引き入れるのだ。
「行も先は?」
運転手が聞いた。
「薄野よ」
マルセール・佐紀はそう云って、曄道に微笑みかけるのだ。そして、ハンドバッグから長い婦人用のパイプをとりだし、器用に煙草をつけて、ライターを鳴らすのである。
曄道は緊張していた。
コンパクトをとりだして、そっと鏡の中を覗いてみる。
女の顔があった。
<大丈夫かしら...>
彼は、そう、女のように心に呟く。
間もなく薄野の盛り場へ着いて、二人はタクシーを降りねばならなかった。
「いよいよ、本番よ....」
マルセール・佐紀は微笑して、ゆっくり彼の腕をとった。
映画館の並んでいる、明るい大通りは、流石に気がひける。
二人は電車通りをさげて、裏通りを歩いてグリーン・ベルトのある大通りへ出た。
「どう? はじめて、外出した気分は」
佐紀は、悪戯っぽく云うのだ。
「まだ、胸がどきどきしてるわ」
曄道は、俯き加減に、水色のハイヒールの尖端を見ながら、歩いている。
「ほら、みんな、私たちを振り返って、みてるわよ...」
佐紀は、いちいち報告する。
曄道は、なかなか顔を上げられなかったが、やっと暗がりに来たので顔をあげた。
「もっと堂々としなきゃ駄目!」
「たって、怖いのよ....」
「みんな、あなたが男だとは、思ってないわよ......。平気でいなさい」
「そうかしら?」
「喫茶店へ、入ってみない7・」
佐紀は揶揄するように云うのである。
手術をうけて、半女性となった佐紀は、女装が板についているから平気だが、密かに女装を愉しんでいた彼には、外を歩くということが、物凄い 〃大冒険〃 のように、感じられたのである。
酔った男たちが、通りがかりに、
「よう、お嬢さん! お茶でも飲まないかい?」
と声をかけたり、中年の紳士が、立ちはだかって、
「つきあってくれない?」
と、執拗ににからんで来たりした時には、流石にひやひやしたが、マルセール・佐紀は手馴れたもので、
「約束があるから、だめー」
と、ビシリと撥つけるのだ。
『苦い旋律』梶山季之著
